Top Ver 7.0△-940
  
 
 
  日本の城に登る・歩く
     ( 日 本 百 名 城 )
  
  
    
[画像]  岡山県総社市 ”徳島城(76)” を訪れる
  
西の丸橋より、徳島城”城山”を望む  
  
  
  
 

   < 日本100名城(四国地方) >

  76徳島城(徳島)*  77高松城(香川)  78丸亀城(香川)*  79今治城(愛媛)L  80湯築城(愛媛)  81松山城@L 天守閣AL松山城B(愛媛)L  82大洲城(愛媛)*  83宇和島城(愛媛)  84高知城(高知)  

 < Next 77高松城(香川) > 

 1.岡山県総社市 ”徳島城(76)” に登城する
 
 徳島城 (とくしまじょう)             
 日本百名城 No.76 
  徳島県 徳島市
  (撮影 2011.04.30)
 徳島城は、徳島市の中心部に位置し、JR徳島駅の北側にある城です。吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城です。
 戦国時代、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。1582年(天正10年)に土佐国の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。

 1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。    (ウィキペディアより)   
(Size : 5,285KB) 
名勝”徳島城表御殿庭園”を望む 徳島城、”数寄屋橋”より場内を望む
     
 



 
 2.徳島城 ”濠と石垣” を望む
 
 【徳島城 数寄屋橋について】
 徳島城の内堀にかかる数寄屋橋は、橋長12m、幅員3.5m、上部は国産ヒノキを使用した木橋です。擬宝珠高欄を取り入れ、下部は上部にあわせた擬木橋として江戸時代の風情をかもしだしています。
                     
(徳島市HPより)
 
■ 徳島城の堀と石垣を望む。濠のかかる橋は、”数寄屋橋”です ■
徳島城の堀と石垣です。
徳島城の堀と石垣です。石垣には横に筋の入った細長く割れたような形状の石材が使われています。
 



 
 3.徳島城 ”鷲の門” にて
 
■ 徳島城、蔦の門と城内を望む。蔦の門は、再現された門です ■

鷲之門について
 鷲之門は、唯一現存していた建物です。1945年(昭和20年)7月4日の徳島大空襲により、城跡内のほとんどの建物と共に焼失してしまいした。
1989年(平成元年)に復元されています。


■ 城内より、鷲之門を望む ■
”鷲之門”の復元記念碑です。 (◆カーソルセットで案内文が拡大表示されます)
徳島城、内堀から蔦の門を望む



 4.徳島城 ”本丸”へ進む
 
■ 徳島城、”下乗橋”より城内を望む ■
  
■ 徳島城、北側の石垣です ■
徳島城、北側の虎口の枡形です。この上に櫓門があったとのことです
徳島城、本丸跡を望む
 



 
 5.徳島城 ”本丸跡” にて

  【本丸跡について 現地案内板より】

 徳島城の山城部分には、本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸が置かれていました。
 本丸は標高約61mの城山頂上に置かれた曲輪(くるわ)で、山城部分のなかでは最も面積が広く重要でした。本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番の詰めた御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていました。櫓は戦いの際には防御施設となりますが、普段は武器を収めていました。藩主は城山麓御殿で暮らし、城山に登ることは稀でしたが、この御座敷にも藩主専用の部屋があり、台所も設けられていました。また本丸東部に置かれた鐘は城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町民たちの危急を救いました。

 本丸の出入口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(埋門(うずめもん))があり、大名の非常時に対する備えがうかがえます。
 東二の丸には三層の天守が設けられていました。一般的に、天守は城郭の最上部に建てられましたが、徳島城では本丸から一段下がった同地に置かれていました。天守の一階は7間(約14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。
 西の丸には鉄砲櫓と帳(とばり)櫓、その西方の西三の丸には材木櫓と平櫓が設けられていました。
 西三の丸の跡地には、現在水道水池が設置されています。

 
■ 徳島城、本丸(城山山頂)からの眺望です。徳島のシンボル、眉山(びざん)を望む ■
本丸にありました、”清玄防神社’です
  
徳島城、本丸の隅にあります、”弓櫓跡”を望む
徳島城、本丸を望む
徳島城、西の丸跡を望む
徳島城、帳櫓跡を望む
  
本丸から西の丸への石段  西三の丸跡を望む、後方は水道水池です 本丸から西の丸へ 西の丸側のの長い石段です



 6.徳島城のライトアップを楽しむ
 
■ 徳島城の堀と石垣を望む。濠のかかる橋は、”数寄屋橋”です ■
徳島城、”数寄屋橋”にて
徳島城、”蔦の門”を望む
 



 7.徳島城” 案内 (名勝 徳島城表御殿庭園)
 
【 徳島城表御殿庭園について 】
 旧徳島城表御殿庭園は、枯山水の庭と池泉回遊式の庭園で、江戸時代初期に武将で茶人の上田宗箇によって造られた豪壮な石組みによる桃山様式の庭です。 日本の名勝に指定されています。

 庭園は、「阿波の青石」といわれる緑色片岩を多用し、数寄屋橋下から地下水路を通して内堀の海水を導入した潮入り庭園であるのが特徴となっています。枯山水にある全長10.35mの青石橋は中央で折れていますが、初代藩主蜂須賀至鎮(よししげ)が踏み割ったという伝説があります。             
(ウィキペディアより)
 
■ 旧徳島城表御殿庭園、入口にて   (◆カーソルセットで城内Mapが表示されます) ■
徳島城表御殿庭園を望む、左は
徳島城表御殿庭園、枯山水を望む
  
徳島城表御殿庭園にて
  
築山泉水庭。後方は、御殿跡に建てられました”徳島城博物館”です
徳島城築城、藩祖 蜂須賀家政公の銅像です。 (◆カーソルセットで家政公の紹介文が表示されます)
  
 
 
 
 
( 後   記 )
  徳島城は、1873年(明治6年)に発布された廃城令により存城処分となり、1875年(明治8年)には鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去されたとのことです。撤去をまぬがれた鷲之門も戦災で焼失したとのことです。鷲之門は現在復元され、当時の城の様子をうかがうことができる貴重な建物となっていました。

 広い城内には、石垣以外何も残っていませんでした。今後、櫓等の復元を期待したいと思います。   
(2016/1/17)
 
 
ライトアップの徳島城の堀と石垣を望む。濠のかかる橋は、”数寄屋橋”
 
徳島城表御殿庭園を望む
 
徳島城、本丸への石段と石垣を望む


Topへ


 
  
  
  
    Home  Back
  
Copyright (c) e-aruki All Right Reserved by Xinku Yingxing 無断転載禁止