Ver.4 
世界遺産を訪ねる・歩く
[画像]   ト ル コ (トルコ共和国) 
 
  
  
  
 世界文化遺産 ”トロイ遺跡” を歩く
 
 トロイの古代遺跡
 世界文化遺産
 (1998年登録)
 トルコ (ダーダネルス海峡西端のチャナッカレ近郊のヒッサリクの丘)
  (撮影 2010.10.28)
 トロイ遺跡は、トルコ西部、エーゲ海を数キロ先に見渡す丘に有ります。ドイツの実業家ハインリッヒ・シュリーマンが1870年から3年を費やして掘り当てた遺跡です。古代ギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』によれば、トロイは王妃ヘレネをめぐり、ギリシアと10年におよぶ戦争(トロイ戦争)となり、「トロイの木馬」の計略により、一夜にして陥落した伝説の都です。シュリーマンは、神話上の都市と考えられていたトロイの実在を信じ、私財を投じて発掘に成功しました。 (阪急交通社HPより)   
(Size : 1,133KB)  シュリーマンが初めて遺跡を発見した場所 トルコ政府が作成した木馬が設置されています
  
 パレッカム ”ヒエラポリス遺跡” を歩く
 
 ヒエラポリス-パムッカレ
 世界複合(文化・自然)遺産
 (1988年登録)
 トルコ西部 デニズリ県
  (撮影 2010.10.28)
 ヒエラポリスはトルコ西部・デニズリ県にあり、ヒエラポリス-パムッカレとしてユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されています。2世紀頃、ヒエラポリスというローマ帝国の都市が存在し、現在はその遺跡が残っています。
 パムッカレは石灰華段丘の一番上にある遺跡で、ローマ帝国の温泉保養地として栄えたところです。ローマ帝国時代に地震で破壊され、その後復興しますが、1354年の大地震で完全に廃墟となりました。現在、ローマ劇場、ローマ浴場などが残っています。  (ウィキペディアより)   
(Size : 1,078KB)  ローマ帝国の都市跡を望む ローマ帝国時代の劇場跡を望む
 パレッカム ”石灰棚” 温泉水を歩く
  
 ヒエラポリス-パムッカレ
 世界複合(文化・自然)遺産
 (1988年登録)
 トルコ西部 デニズリ県
  (撮影 2010.10.28)
 ヒエラポリスはトルコ西部・デニズリ県にあり、ヒエラポリス-パムッカレとしてユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されています。
 パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味です。昔からこのあたりが良質の綿花の一大生産地であることによります。
 パレッカムの棚田の畦部分は、流れてきた植物片などがひっかかり、これに石灰分が沈着し、成長したためのものです。このような景観が約200mの高さにわたって形成されています。   (ウィキペディアより)   
(Size : 1,242KB)  石灰棚を望む 満面の水の石灰棚
 カッパドキア(1) ”ギョレメの谷” を歩く
  
 ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群
 世界複合(文化・自然)遺産
 (1985年登録)
 トルコ カッパドキア地方ネヴシェヒル県
  (撮影 2010.10.31)
 カッパドキアとはトルコの首都アンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいいいます。
 トルコのほぼ中央に位置するカッパドキアでは、"妖精の煙突"と呼ばれるキノコや尖塔の形をした奇岩が建ち並んでいます。二つとして同じものがない奇岩の群れが醸し出す幻想的な光景は、世界でも例を見ない別世界を創り出しています。  (ウィキペディアより)   
(Size : 1,032KB)  カッパドキアの朝(気球基地を望む) ギョレメ谷眺望(正面奥はウチヒサル城塞)
 カッパドキア(2) ”カイマルク地下都市” を歩く
 
 『ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群』
 (カイマルク地下都市)
 世界複合(文化・自然)遺産
 (1985年登録)
 トルコ カッパドキア地方ネヴシェヒル県
  (撮影 2010.10.31)
 カイマルク地下都市は、カッパドキアで確認されている36ヶ所の地下都市の一つで、1964年に発見されています。 都市の広がりは4km2 ほど、地下8階まで確認されております。深さ65m、通気孔は85メートルの深さで、家畜部屋、地下1階のワイン製造所や地下2階の食堂、寝室、穀物貯蔵室、学校など様々な部屋があり、地下7階には教会まで造られています。現在は地下4階まで一般公開されています。
(Size : 868KB) 地下都市への入り口 地下都市の通路
 カッパドキア(3) ”ギョレメ国立公園” を歩く
 
 ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群
 世界複合(文化・自然)遺産
 (1985年登録)
 トルコ カッパドキア地方ネヴシェヒル県
  (撮影 2010.10.31)
 カッパドキアとはトルコの首都アンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいいいます。
 トルコのほぼ中央に位置するカッパドキアでは、"妖精の煙突"と呼ばれるキノコや尖塔の形をした奇岩が建ち並んでいます。二つとして同じものがない奇岩の群れが醸し出す幻想的な光景は、世界でも例を見ない別世界を創り出しています。   (ウィキペディアより)   
(Size : 886KB)  パシャバー(しめじ岩)の風景 三姉妹の岩 風景
 イスタンブール ”トプカプ宮殿” を歩く
 
 『イスタンブール歴史地域』
 (トプカプ宮殿)
 世界文化遺産 (1985年)
 トルコ イスタンブール市
  (撮影 2010.11.01)
 トプカプ宮殿(Topkap? Saray?)は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿です。イスタンブル旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置します。
 宮殿のある丘は、古代ビュザンティオンのアクロポリスのあった場所にあたります。宮殿の外壁はこの丘を大きく囲み、外壁内の総面積は約70万m2ほどの面積です。宮殿の正門は、アヤソフィアの側にある「帝王の門」(バーブ・ヒュマーユーン)です。  (ウィキペディアより)   
(Size : 1,132KB)  ボスポラス海峡よりトプカプ宮殿を望む トプカプ宮殿よりボスポラス海峡を望む
  トプカプ宮殿 ”ハレム” を歩く
 
 『イスタンブール歴史地域』
 (トプカプ宮殿)
 世界文化遺産 (1985年)
 トルコ イスタンブール市
  (撮影 2010.11.01)
 トプカプ宮殿(Topkap Saray)は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿です。イスタンブル旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置します。
 トプカプ宮殿のハレムには多くの女奴隷が集められ、最盛期には1000人を越えたと言われています。宮殿に上がる前にはアラビア語の読み書きに始まり、歌舞音曲、礼儀作法、料理、裁縫などの教養を身に着けた後、カリエ(侍女)として皇帝に仕えたとのことです。  (ウィキペディアより)   
(Size : 1,150KB)  スルタンの大広間 ハレムの寵妃のたちの居室を望む
 世界で最も美しいモスク ”ブルーモスク (スルタンアフメト・モスク)” を歩く
 
 『イスタンブール歴史地域』
 (スルタンアフメト・モスク)
 世界文化遺産 (1985年)
 トルコ イスタンブール市
  (撮影 2010.11.02)
 スルタンアフメト・モスク(Sultanahmet Camii)はトルコのイスタンブールを代表するモスクで、世界文化遺産であるイスタンブール歴史地域の歴史的建造物群のひとつ。
 オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造された。世界で最も美しいモスクと評される。
 世界で唯一優美な6本のミナレットと直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚のイズニク製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさからブルーモスクとも呼ばれる。  (ウィキペディアより)   
(Size : 1,658KB)  ブルーモスク全景(アイソフィア側から) ブルーモスクの大ドーム内部
 イスタンブール ”アヤソフィア” を歩く
 
 『イスタンブール歴史地域』
 (アヤソフィア)
 世界文化遺産 (1985年)
 トルコ イスタンブール市
  (撮影 2010.11.02)
 アヤソフィア(トルコ語:Ayasofya?)は、トルコのイスタンブールにある博物館です。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂として建設されたもので、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノポリス総主教座の所在地でありました。東西教会の分裂(1054年の「相互破門」の舞台はまさに当大聖堂だった)以後は、正教会の総本山となっています。
 東ローマ帝国の代表的な遺構であり、ビザンティン建築の最高傑作と評価されています。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用されていました。  (ウィキペディアより)   
(Size : 1,020KB)  アイソフィア全景(ブルーモスク側から) アイソフィアの内部
 イスタンブール ”テオドシウスの城壁” を歩く
      
 『イスタンブール歴史地域』
 (デオドシウス城壁)
 世界文化遺産 (1985年)
 トルコ イスタンブール市
  (撮影 2010.11.02)
 テオドシウスの城壁は、コンスタンティノープルを取り囲む形の城壁でした。皇帝テオドシウス1世の死後、ローマ帝国の東西分裂が定着すると、コンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都となった。410年、ローマが西ゴート人により掠奪を受け、帝国の東方でもフン族がドナウ川の北に迫っていた。防衛体制を強化するため、テオドシウス2世は難攻不落の「テオドシウスの城壁」を建設し、413年に完成した。
 テオドシウス城壁は二重構造になっています。内壁は外壁よりも数m高くなっています。外壁のさらに外側に濠があり、容易に外敵の侵攻を許さない構造でした。全長6.5kmで、約55m間隔で内壁にも外壁にも塔が建てられていました。  (ウィキペディアより)   
(Size : 1,440KB)  イスタンブール テオドシウスの城壁 イスタンブール市内を縦断する城壁
  
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