Ver.4 
日本の城に登る・歩く
  ( 日 本 百 名 城 )
[画像]  (日本百名城 No.97)  ”鹿児島城 (鶴丸城)” を歩く
  
 ”鹿児島城(鶴丸城)” に登城する
 鹿児島城 (かごしまじょう)
 日本百名城 No.97  
 鹿児島県鹿児島市城山
 (撮影 2012.04.29)
 鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山麓にあった城です。鹿児島では一般的に古くから「鶴丸城」(つるまるじょう)と呼ばれている。「鶴丸」の呼び名の語源は島津家の家紋が「鶴丸の紋」であったことによります。城跡は鹿児島県史跡に指定されています。
 江戸時代初期に島津氏によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城であります。     (ウィキペディアより)  
(Size: 1,436KB) 石垣と濠、昔の面影を残す鶴丸城跡
鶴丸城、大手橋と御桜門跡を望む
 鶴丸城 ”大手門” より入城する

 鶴丸城は慶長7年(1602)島津家第18代当主(初代薩摩藩主)島津家久(忠恒)によって築城され、城郭構造は城山を背に造られた平山城で公称77万石の大名としては珍しい天守閣を持たない屋形造りの城でした。「人を以って城となす、教育を以って城となす」と言う考えと共に徳川幕府への恭順の意もあったと考えられます。明治の廃藩置県が行われるまで、薩摩・大隅・日向・南西諸島の藩政の中心として重要な役割を果たしてきました。   (鹿児島城HPより)

鹿児島城(鶴丸城)、大手橋を望む
鶴丸城、御桜門跡を進む 大手橋に残る弾痕
 鹿児島城 ”二の丸跡” を歩く

  鶴丸城は、海からとても近い場所に築城されたことから防御の面で難があり、薩英戦争の時には奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるといったこともありました。南国ということもあり、災害やシロアリの被害にもさらされ、建て替えや修復も何度か行われたようです。

 また、鶴丸城は薩摩藩から有名な著名人を輩出した場でもありました。西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀・篤姫(天璋院)など歴史を動かした人達のスタート地点でした。    (鹿児島城HPより)


二の丸より大手橋を望む (■カーソルセットで明治時代の鶴丸城が表示されます。現地案内板より複写)
二の丸は鹿児島県立図書館に(鹿児島県立図書館入口) 二の丸と本丸の間の石垣
 鹿児島城 ”本丸跡” を望む(1)
 本丸跡を見つめるように設置されている、天しょう院(篤姫)の銅像 (■カーソルセットで写真がアップします)
正門より、本丸跡を望む 本丸跡の”黎明館”(鹿児島県歴史資料センター)を望む
 鹿児島城 ”本丸跡” を望む(2)
■ 鶴丸城、”麒麟の間”のあったところ。礎石の跡につつじが植えられています(現地案内板より)
 
御角櫓(屋蔵)跡を望む 本丸跡を望む
 城山より ”桜島” を望む
【鶴丸城と城山】

 本城である鶴丸城は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城でありました。そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていました。   (鹿児島城HPより)


■ 城山から桜島を望む ■
  
堀の周りにはお花が沢山植えられています 石垣に生える、常緑の高木 ”アコウ”
 ”鹿児島城(鶴丸城)” 案内
 
  鶴丸城は、日本最後の内戦となった西南戦争終結の地でもあり、鶴丸城の石垣や隣接する私学校跡地には数多くの弾痕が残っています。
 本丸は明治6年(1873)の火災で焼失、二の丸は明治10年(1877)の西南戦争で炎上・消失しましたが、城門は明治初期まで残りその姿は今も写真に当時の面影を鮮明に伝えています。


 1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されることはありませんでした。1901年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、戦後、鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っています。  
     (ウィキペディアより)
城山を背景にし、西郷隆盛さんの銅像(身長:5.257m、頭身:5.7m)が建っています
西郷さんの銅像を望む(西郷さんとの撮影広場になっています) 城山を望む
  
鹿児島市内の様子です 鹿児島城の堀と石垣(1) 鹿児島城の前を歩く 大手橋前にて 鹿児島城の堀と石垣(2) 黎明館展示されている篤姫の着物です
Google!地図より ■カーソルセットで航空写真を表示します。 ■カーソルセットで航空写真を表示します。
後 記 
 薩摩藩77万石の城、鶴丸城(鹿児島城)は非常にシンプルな城でした。城というよりは島津家の住居という感じを受けました。「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」薩摩藩流の思想により築城されているとのことです。城山を含め全体を一つの城と考えれば納得のできる形と思いました。

 この地、この城で日本の歴史を動かした、西郷隆盛や大久保利通はどんな生活していたなかな、この場所を歩いていたのかなァ〜と、思い浮かべながら城内を散策しました。
 最後に西郷さんの前で記念写真をとり、鶴丸城を後にしました。


 城山を鹿児島城と思い込んでいました自分は、城山の近くで鹿児島城はどの辺ですかと尋ねたら返事が無く、鶴丸城といったら場所を教えてくれました。市内の人たちには鶴丸城が一般的なのだと思いました。    
(2012.09.25)

石垣に寄生しているように見える”アコウ”の木
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