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         日本の歴史を訪ね歩く   
(撮影:2003年5月31日)



 1.国の重要伝統的建造物群保存地区 ”妻籠宿”
 
 中山道 妻籠宿
 (つまごやど)
 国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地
 長野県木曽郡南木曽町
 (撮影 2003.05.31)
 妻籠宿は、歴史の面影を残す宿場町です。 大妻籠(夏の妻籠) 妻籠_秋(秋の妻籠) 江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていました。 中山道69次のうち江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として古くから賑わいをみせていました。

 時代が変り明治になり鉄道や道路が新たに造られ、宿場としての機能を失った妻籠宿は衰退の一途をたどりました。 やがて昭和になり経済成長の中、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している町並みが見直され、ここに全国に先駆けて保存運動が起こったのです。 妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を、 「売らない・貸さない・壊さない」 という3原則をつくり、ここで生活しながら、江戸時代の町並みという貴重な財産を後世に伝えているのです。
      (公益社団法人 妻籠を愛する会HPより)   
(Size : 984KB) 雨の中の妻籠宿の散策です 懐かしい日本情緒のお店でのショッピングです


 
 2.国の重要伝統的建造物群保存地区 ”妻籠宿”を散策する
 
 妻籠宿(つまごじゅく)は、中山道42番目の宿場(→中山道六十九次)です。現在は長野県木曽郡南木曽町の蘭川(あららぎがわ)東岸に位置します。 隣接する馬籠宿と、馬籠宿へ至る峠道と合わせて木曽路を代表する観光名所となっています。(ウィキペディアより
 
■ 妻籠の街並みを望む ■
木曽路
 



 
 3.復元された ”妻籠宿本陣”を望む
 
 本陣は江戸時代、大名など身分の高い人の宿泊施設でした。妻籠宿本陣の最後の当主だった藤村藤村の兄、島崎広助が東京に出たため明治20年代に建物は取り壊されました。現在の建物は1995年(平成7年)建築のものです。江戸時代の間取り図をもとに忠実に復元されました。石置き屋根に当時のようすが偲ばれます。      (妻籠観光協会ホームHPより)
島崎 藤村

 慶長6年(1601)、宿駅が制定されると妻籠宿本陣には島崎氏が任命され、明治に至まで本陣、庄屋を兼ね勤めました。
ここは島崎藤村の母の生家で、次兄広助が養子に来ています

南木曽町博物館妻籠宿本陣にて(拡大) 南木曽町博物館妻籠宿本陣にて 南木曽町博物館妻籠宿本陣にて(拡大)



 4.江戸時代にタイムスリップ ”妻籠宿”
 
 妻籠宿は中山道と飯田街道の分岐点に位置し、古くから交通の要所として栄えました。昭和43年に町並みの保存が始められ、全長約500mの町並みは、江戸時代にタイムスリップした感じで、どれも当時の面影を残し、懐かしさと郷愁を感じる情緒いっぱいの宿場町となっています。    (妻籠観光協会ホームHPより)
 



 5.「売らない・貸さない・壊さない」の町づくり ”妻籠宿”
 
 明治になり時代が変り、鉄道や道路が新たに造られ、宿場としての機能を失った妻籠宿は衰退の一途をたどりました。
やがて昭和になり経済成長の中、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している町並みが見直され、ここに全国に先駆けて保存運動が起こったのです。妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を

         「売らない・貸さない・壊さない」

という3原則をつくり、ここで生活しながら、江戸時代の町並みという貴重な財産を後世に伝えているのです   
(妻籠観光協会HPより)
景観保全活動の町

 この町は、全国の伝統的な町並みが、経済成長に伴い姿を消してゆく中、いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組んできました。
 この活動が実り、今日の姿を造りだしています。日本のどこでも見られる、電柱・テレビアンテナ・自動販売機はめにつきませんでした。
 



 6.江戸時代の情緒を伝える ”妻籠宿”
 
【高札場について】

 『高札場』は、宿や村の庶民に法令を徹底させる手段として設けられていました。高札場の管理は厳重で、古くなって墨文字が薄くて墨入れを必要とするようなときでも藩の指示を待たねばならなかった。現在馬籠では当時の場所に忠実に復元してあるが、その内容は正徳元年(1711年)の記録のものである。
(妻籠観光協会ホームHPより)
 
 
 



 6.木曽路 ”妻籠宿”案内
 
【法起寺の創建について】

 慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康は、翌年東海道の整備を手始めに順次交通網の整備に着手し、幕府が管轄する道路を定めこれらの道路には多くの宿駅を定めました。
 中山道は江戸日本橋を起点とし京都まで132里(約530km)の道程で、ここには69の宿場が設けられていました。本州の中部山岳地帯を縦断し、木曽を通っていたことから別名を「木曽路」とも「木曽街道」とも呼ばれていました。 
(妻籠観光協会ホームHPより)
 
■ カーソルセットで案内板が表示されます ■
  
Google Mapより(■カーソルセットで写真表示) Google Mapより(■カーソルセットで写真表示) Google Mapより(■カーソルセットで写真表示)
 
 
( 後   記 )

 あいにくの雨の中、妻籠宿には30年ぶりに訪れました。昔、2階の窓から通りを見ていた記憶は有りますが、どの宿に宿泊したかは思い出せませんでした。ただ町並は昔のまま、当時のまま何も変わっていない気がしました。
 雨のため、観光客のいない林家の旧宅では、物音一つしない中、囲炉裏を囲み、昔の話に聴き入り、時間の止まっているような”時”を過ごすことができました。歴史と時間、自分のこの30年を考えてしまうのは、この地のなせることかもしれません。         
(2009/3/9)
 
 
 



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