Top
Ver.4-840 
日本の城に登る・歩く
  ( 日 本 百 名 城 )
[画像]  (日本百名城 No.46)   天然の要害 ”長篠城” を歩く
  

< 日本100名城(東海地方) >

 
38岩村城(岐阜)+   39岐阜城(岐阜)*  40山中城(静岡)LM   41駿府城(静岡)LM*  42掛川城(静岡)  43犬山城(愛知)   44名古屋城(愛知)  45岡崎城(愛知)M / 岡崎城公園紅葉   46長篠城(愛知)   47 伊賀上野城(三重)   48松坂城(三重)    


 < Next 47 伊賀上野城(三重) >

 ”長篠城” に登城する
 長篠城 (ながしのじょう)
 日本百名城 No.46  
 愛知県新城市
 (撮影 2012.11.24)
 長篠城(ながしのじょう)は、三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった城(平城)です。現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されています。天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる城です。   (ウィキペディアより) 
 
 11月の紅葉真っ盛りの中、訪れてきました。

(Size: 1,513KB) 長篠城本丸跡を望む 長篠城跡史跡保存館を望む
 長篠城 ”本丸跡” を望む
【長篠城について】

 小説家 伊東潤は『歴史人』2012年6月号(KKベストセラーズ)の連載寄稿「城を攻める⇒城を守る」にて、「構造に工夫が乏しい典型的な土豪の城である。それほど堅牢な城とは思えず、武田の大軍に落とせない城とも思えない。武田軍はこの城を囮として、後詰めに来る信長・家康をおびき出して決戦するつもりだったのではないか。しかし甘く見た長篠城を落とせないままでの合戦を強いられるなど、齟齬(そご)をきたした上で敗北した。」などと分析している。    
(ウィキペディアより)

長篠城、本丸跡を望む
長篠城 本丸”土塁”を望む 長篠城址歴史保存館前の案内板です
   
本丸北側に残る土塁跡への入り口です  本丸北側に残る土塁跡
 天然の要害 ”長篠城 本丸跡” を望む
本丸・野牛曲輪跡を望む (自然の要害、寒狭川(左)と宇連川(右)の合流する渡合からの眺めです)
 長篠城 ”本丸跡” からの眺望
 本丸、土塁跡方面を望む
本丸跡に有ります、烈士鳥居強右衛門の案内板です 本丸、土塁跡を歩く
 長篠戦いの舞台長篠城    −織田・徳川連合軍の鉄砲対武田の騎馬隊の戦い−

【「長篠の攻防」と「設楽原の決戦」】  −新城市役所HPより−

  天正3年(1575)5月、武田信玄のあとをついだ武田勝頼は西へ勢力を伸ばすために重要な拠点となる長篠城を1万5千の軍を率いて包囲し攻撃しました。城主奥平貞昌以下500の兵は、よく攻撃に耐えましたが、大軍に抵抗するにも限界となったため、織田信長、徳川家康へ救援を請うため鳥居強右
衛門を岡崎へ遣わせました。5月18日、信長3万、家康8千の援軍は城の西方約4キロメートルにある設楽原に到着して陣を築きました。武田軍は20日、長篠城の包囲を解いて設楽原へ進出し、21日の夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入して壮絶に戦いましたが、大量の火縄銃の攻撃にさらされ歴戦の武将を多く失った勝頼は、数騎の味方に守られて敗走しました。

この戦いは武田氏を没落させ、織田・徳川の勢力を強大にした日本史上重大な意味を持つ戦いです。

 
■武田軍の砦方面を望む (カーソルセットで案内板がアップします) ■
民家となっている、二ノ丸、糧庫跡を望む 家老屋敷跡を望む
 長篠城跡内を走る ”飯田線” を望む
【長篠城跡の遺構】

 長篠城跡は、本丸付近は多くの遺構が残っています。特に大規模な空堀と土塁が残っております。天正元年(1573年)に徳川家康が長篠城を奪取した後に大規模な修築を行った結果であると考えられています。

 また、飯田線のために本丸が寸断されてしまった本丸南には野牛曲輪があり、ここの遺構はよく残っています。しかし一方で、城の北側のほとんどは埋没、破壊され、現在は畑地や宅地などになっていますが、一部に石垣の遺構を残しています。    (ウィキペディアより)


■ 本丸を分断している、飯田線を列車が通る(右側:本丸、左側:本丸南) ■
  
殿井(とのいと) 河岩段丘から湧き出している泉です。城兵の貴重な飲料水でありました。(現地案内板より)  物見櫓跡を望む 
   
   
寒狭川と宇連川の合流地点から、宇連川を望む 寒狭川と宇連川の合流地点から下流を望む。橋の工事中が見れえます
   
   
寒狭川と宇連川の合流地点から寒狭川を望む。鉄橋は城跡を縦断している飯田線です。 飯田線に本丸と寸断された,、本丸南にある”野牛曲輪跡”を望む
 ”長篠城” 案内

 長篠城は、豊川本流(寒狭川)と宇連川の合流点の断崖上城にあり、本丸・帯郭(おびくるわ)・野牛郭・巴城郭(はじょうくるわ)・瓢(ふくべ)郭・弾正郭等、総面積10ヘクタールの広さでした。
  ○本丸の土塁と堀の一部を今に残し、戦国末期の城郭の姿をよく見せている。
  ○永年五年(1508)二月徳川家康は、奥平貞明を城主に任命し城郭の整備を行い、武田勝頼の猛攻に耐えた。
     (現地案内板より)

長篠城址にあります、”長篠城址史跡保存館”です
本丸入り口にある、城址碑です ”長篠城址史跡保存館”の屋根瓦です
長篠城址の駐車場。無料でした。 城跡を分断している飯田線 本丸跡土塁上にあります城址碑 ”長篠城址史跡保存館”入り口にある瓦です
Yahoo!地図より ■カーソルセットで航空写真を表示します。 ■カーソルセットで航空写真を表示します。
後 記 
 長篠という言葉について、思い浮かぶことは少なく、すぐ浮かぶ言葉は「長篠の戦い」でした。この長篠の戦いについては、あまり歴史に興味のない人でも覚えている人は多いと思います。

 織田・徳川軍対武田軍の戦いの中心となった戦場、長篠城に行ってまいりました。
    ・武田家滅亡への戦い
    ・戦が騎馬軍団から鉄砲へ
 と大きく変わった戦の有った場所です。

 現地へ行ってびっくりしたのは、山または山、寒狭川と宇連川の切れたった崖、この天然の要害に守られて長篠城は有りました。こういう環境の中での戦いが有ったことには、ビックリさせられました。この自然の険しさの中、当時の戦はどのように進んだのかは、なかなか想像できませんでした。

 長篠城址は、遺構等は少なく紅葉の美しさがさえわたった城址でした。    
(2012.12.31)



Topへ

Home                                         Back
Copyrightc e-aruki All Right Reserved by Xinku Yingxing 無断転載禁止