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 日本の歴史を訪ね歩く
    (奈 良 : 飛 鳥 路 、大 和 路)
  
  
    
[画像]   奈良 ”飛鳥路” を散策する
  
  
  
  
  
  
 奈良 ”飛鳥路” を散策する
 
 飛鳥路 (あすかじ)
 酒船石遺跡、亀形石造物、甘樫丘
 (飛鳥路)
 石造物、他
 奈良県 高市郡明日香村
 (撮影 2015.05.02)
  ”あすか”飛鳥は地名としては奈良県高市郡明日香村として限られていますが、昔からいわれている“あすか地方”とはもっと広く、大和平野の東南にあたる丘陵地一帯を指し、飛鳥川流域から大和三山(畝傍山・香久山・耳成山)に囲まれた地域をも含む総称でした。
  中心地域はやはり明日香村であり、ここには縄文時代からの遺跡と、その上に築かれた飛鳥時代の遺跡とが、重なり合って存在している所です。現在の明日香村は、戸数2,000戸、人口約6,500人の農村で、総面積2,400ヘクタールすべてが歴史的風土保存地域、風致地区などに指定された村で、貴重な遺跡や埋蔵文化財の宝庫といわれています。

  “あすか”という地名のいわれについては、古墳時代からわが国に移住した、おびただしい数の渡来者たちが、さすらいの果てに得た安住の地であるという意味で、「安宿」と名づけたのが転じたといわれ、さらにその枕詞に使われていた「飛鳥」をも“あすか”と読ませることになったという説が立てられています。   (古都飛鳥保存財団HPより)  
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甘樫丘より、飛鳥京跡を望む 飛鳥路、亀形石造物を望む



 飛鳥路 ”酒船石遺跡”にて
 
■ 酒船石遺跡(さかふねいしいせき)を望む ■
※酒船石遺跡(さかふねいしいせき)は、奈良県明日香村岡にある、いくつかの石造物からなる遺跡です。
以前から知られている酒船石に加えて、平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになりました。この命名は明日香村教育委員会によるが、研究者の間では酒船石と亀形石造物との関連性を疑う意見も強く、この名称は適当ではないとの意見も存在しています。
 この遺跡は、田身嶺(多武峰:とうのみね)にあった両槻宮の一部、あるいは両槻宮への入り口施設とする見解が有力視されています。        (ウィキペディアより)




酒船石遺跡(さかふねいしいせき)上部より望む。竹林の囲まれた中に遺跡はありました
酒船石遺跡(さかふねいしいせき)、下部を望む
  
    酒船石遺跡(さかふねいしいせき)への入口です           酒船石遺跡の案内板です                      酒船石遺跡です
  
    酒船石遺跡(さかふねいしいせき)、石垣跡です         酒船石遺跡、石垣跡の案内板です           酒船石遺跡(さかふねいしいせき)への道です


 飛鳥路 ”亀形石造物” にて(1)
 
■ 亀形製造物を望む、石造物は正面の柵の下に有ります(1) ■
亀形製造物を望む、石造物は正面の柵の下に有ります(2)
【亀形石造物について】
 亀形石造物は、酒船石遺跡の北西に位置する謎の石造物です。1999年発見されました。全長2.4m、幅2mの亀形を呈し、顔を南向きにして据えられていました。丸く彫られた両目、4本の指の表現が施された両足が特徴的である。甲羅部分は円形の凹型になっており、水を溜める仕組みであったことがわかります。水は鼻の穴から甲羅部分に流れ込み、V字状に彫り窪められ表現された尻尾の部分から流れ出すようになっています。亀形石槽のすぐ南側には小判形(船形)に彫り込まれた水槽を有する石造物が、さらに南側にこれら石造物に水を供給していたと思われる湧水施設がみつかっています。

 斉明天皇が信仰した道教の世界を表す両槻宮の一部ではないかとか、政治を占う施設とか、身を浄める場所とかさまざまな説があります。出土した土器などから7世紀中頃~10世紀の間にかけて利用されていたことが確認されています。 (古都飛鳥保存財団HPより)
亀形石造物、横からの眺めです
  
亀形石造物、の入口様子です


 飛鳥路 ”亀形石造物” にて(2)
 
■ 亀形製造物を正面より望む ■
  
亀形製造物を上部より望む
亀形製造物、遺跡周辺の様子です
  
     
 亀形石造物、正面を望む(亀形と小判形石造物です)


 飛鳥路 ちょっと一息
 
■ 飛鳥路、街並みの様子です。自転車は、この趣のある街並みを走ります (石舞台~亀形石造物にて) ■
飛鳥路、街並みの様子です (飛鳥寺~甘樫丘にて)
  
 


 飛鳥路 ”甘樫丘” にて
 
■  甘樫丘への登り口です  ■
 甘樫丘は、頂上から飛鳥一円が眺望できる標高145mの小高い丘です。この丘の中腹と麓に、蘇我蝦夷・入鹿親子の邸があったと言われ、大化改新によって入鹿が中大兄皇子に倒された直後、蝦夷はその邸に火をかけて自害したといわれています。『多武峯縁起絵巻』などにも炎上する蘇我邸が描かれています。甘樫丘の東麓にあたる場所(甘樫丘東麓遺跡)が発掘された結果、焼けた建築部材・土器などが出土しました。この位置が大化の改新の際中大兄皇子が陣取ったとされる飛鳥寺と対峙することや、土器の年代観が、この時期に一致することなどから、調査地の上方に蘇我邸が存在していたであろうことが想定されています。
  
甘樫丘の展望広場です
甘樫丘からの眺望です
甘樫丘頂上への途中にありました句碑です


  飛鳥路 ”甘樫丘より飛鳥京” を望む
 
【 飛鳥の文化について 】  -古都飛鳥保存財団HPより-
  
 飛鳥の歴史は、政治面では争乱の歴史であったが、文化面では、今日の文化の基礎が花開いた時代ということができる。
 この時代に次々と建立、製作された、飛鳥様式と呼ばれる寺院や仏像彫刻は、引き続き白鳳・天平様式へと推移する。現在、飛鳥文化をそのまま伝えるものとして、山田寺回廊や飛鳥大仏の他、斑鳩の法隆寺及びその周辺を挙げることができる。特に、法隆寺は一度焼けたとはいえ、伽藍配置や仏教の様式に、大陸の六朝風が取り入れられており、現存する飛鳥文化の代表作とされている。
 一方日本文学の原点といわれる万葉集には、飛鳥時代の人々の歌が多数収録されており、これらの歌謡には、当時の人々の大らかな生活ぶりや、繊細な生活感情がよく表されている。文学作品としても非常にすぐれたものがあり、飛鳥文化の水準の高さを証明している。また、これらの万葉集を書き写すために、いわゆる万葉仮名が生み出されることにもなった。


 
■ 甘樫丘より、飛鳥京跡方面を望む ■
■ 甘樫丘より、葛城方面を望む ■
  
 
  甘樫丘入口にあります、石標と展望台にあります”飛鳥京絵図”(ベンチのテーブル)です
  
甘樫丘からの眺望です 飛鳥路、サイクリングを楽しむ(1) 飛鳥路、サイクリングを楽しむ(2) 飛鳥路、サイクリングを楽しむ(3)
 
 
  
 
yahoo!地図より yahoo!地図より!地図より(■カーソルセットで写真表示) yahoo!!地図より(■カーソルセットで写真表示)
  
 
           
後   記 
 飛鳥路には、観光名所が点在しています。観光名所の移動には車を止め、自分たちのペースで楽しめる自転車としました。5月のゴールデンウィーク、異常な暑さの中のサイクリングとなりましたが、ほぼ目的を達成し楽しむことが出来ました。
 また飛鳥路最後の観光場所は、甘樫丘としました。甘樫丘から飛鳥京全体を眺め、古(いにしえ)に思いをはせるのもいいにではないかと思ったからです。

 甘樫丘で嬉しかったことは、丘の頂上の展望台ベンチのテーブルに「飛鳥京絵図」が描かれていたことです。この絵図をもとに眼下に広がる飛鳥の街並みを眺め、日本の文化(仏教)はここから始まったのだと、文化の発祥について感じることができました。

 また、時期を見てサイクリングに来たいと思いました。  (
2015/11/04)

 
 
甘樫丘、展望台のベンチのテーブルにあります ”飛鳥京絵図”です。展望台から対比しながら眺めると飛鳥時代の状況が見えてきます
  
甘樫丘の丘から眺める飛鳥寺です。上写真と対比により飛鳥京が想像できます
甘樫丘からの眺望です


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