Ver 7.0
  
 
 
 ( 日 本 ; 沖 縄 )
  
  
    
[画像]  世界文化遺産 ”琉球王国のグスク及び関連遺産群” を訪れる
  
  
  
  
  
 
 
  




 
世界文化遺産登録 ”琉球王国のグスク及び関連遺産群”
(世界遺産(16) 2000年11月登録)
 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は、沖縄県の那覇市など 3 市 4 村にまたがって点在しています。かつてこの地で隆盛を誇った琉球王国時代の文化遺産です。「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は、登録資産の総面積が 54.9ha、緩衝地帯の総面積が 559.7ha で合計614.6ha に及びます。琉球が琉球王国への統一に動き始める 14 世紀後半から、王国が確立した後の 18 世紀末にかけて生み出された琉球地方独自の特徴を表す文化遺産群で、今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽の 9 資産を構成要素としています。
 これらの資産は文化財保護法に基づき重要文化財(2 棟)、史跡(7 件)および特別名勝(1件)にも指定されており、保存と活用が図られています。沖縄のグスクには必ず霊地としての役割があり、地域の信仰を集める場所であったと考えられています。琉球諸島は東南アジア、中国、朝鮮、日本の間に位置し、それらの文化・経済の中継地であったことを背景に、グスク(城塞)を含む独自の文化財および信仰形態をともなっています。


構成資産は沖縄県に点在する次の9資産

    1.今帰仁城跡
(なきじんじょうあと)
    2.座喜味城跡
(ざきみじょうあと)
    3.勝連城跡
(かつれんじょうあと)
    4.中城城跡
(なかぐすくじょうあと)
    5.首里城跡
(しゅりじょうあと)
    6.園比屋武御嶽石門
(そのひゃんうたきいしもん)
    7.玉陵
(たまうどぅん)
    8.識名園
(しきなえん)
    9.斎場御嶽
(せいふぁうたき)

                                 
(文化庁 HPより)
 
 





 1.琉球王国のグスク ”今帰仁城跡” を訪れる
 
 今帰仁城
 (なきじんじょう)
 世界文化遺産
 「琉球王国のグスク及び関連遺産
 群」として2000年11月登録
 日本百名城 No.98
 沖縄県国頭郡今帰仁村
 (撮影 2015.12.12)
 今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう、別名:北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく))は、沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する城跡です。14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城でありました。国の史跡に指定されています。

 城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせています。北山は尚巴志に1416年(応永23年・永楽14年。1422年(応永29年・永楽20年)説もある)に滅ぼされますが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣されていました。1609年の薩摩藩による琉球侵略の際には、その攻撃の第一目標となりました。
   (ウィキペディアより)   
(Size : 3,760KB) 今帰仁城、志慶真門郭(シジマジョウより、主郭の城壁を望む 今帰仁城、”城壁”を望む





 2.琉球王国のグスク ”座喜味城跡” を訪れる
 
 座喜味城
 (ざきみぐすく・ざきみじょう)
 世界文化遺産
 「琉球王国のグスク及び関連遺産
 群」として2000年11月登録
 沖縄県 中頭郡読谷村
 (撮影 2015.04.11)
 座喜味城(ざきみぐすく・ざきみじょう)は、沖縄県中頭郡読谷村にあったグスク(御城)の城趾です。
 1416年-1422年に読谷山の按司護佐丸(ごさまる)が築城したとされています。城門のアーチに楔石を用いており、アーチ門では古い形態とされています。

 沖縄戦前には日本軍の砲台や、戦後には米軍のレーダー基地が置かれたため一部の城壁が破壊されましたが、城壁の復元が行われました。
 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定されましたが、米軍基地として使用されていた部分は指定し得なかったため、返還を機に追加指定されています。ただし、現状変更のあった部分(西側道路部分)についてはのちに指定を解除されています。
              (ウィキペディアより) 
(Size :    KB) 座喜味城、正面入り口を望む 座喜味城、アーチ型の城門を望む




 3.琉球王国のグスク ”勝連城跡” を訪れる
 
 勝連城
 (かつれんぐすく・かつれんじょう)
 世界文化遺産
 「琉球王国のグスク及び関連遺産
 群」として2000年11月登録
 沖縄県 うるま市
 (撮影 2015.12.13)
 勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にあったグスク(御城)の城趾です。阿麻和利の城として知られています。

 城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置しています。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されています。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にあります。
 13世紀-14世紀に茂知附按司により築城されたといわれています。この城の最後の城主が阿麻和利です。阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論みましたが1458年に琉球王府によって滅ぼされました。
              (ウィキペディアより) 
(Size :    KB) ”勝連城跡”を望む 勝連城跡、城門からの風景です




 4.琉球王国のグスク ”中城城跡” に参拝する
 
 中城城
 (なかぐすくじょう)
 世界文化遺産
 「琉球王国のグスク及び関連遺産
 群」として2000年11月登録
 日本百名城 No.99
 沖縄県中頭郡北中城村・中城村
 (撮影 2015.12.13)
 中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中頭郡北中城村・中城村に存在した日本の城です。15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸のグスク(城)として知られています。城壁の増築により現在みられる規模になったと考えられていますが、築城の時期は不明となっています。

 中城城は当時貿易港であった屋宜港から2キロメートルほど離れた標高約160メートルの丘陵上にあり、中城村の北西から南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害としと城となっています。
   (ウィキペディアより)   
(Size : 4,212KB) 中城城、”二の郭”より”一の郭城壁”を望む 中城城、広場より”三の郭”と世界遺産記念碑を望む





 5.琉球王国のグスク ”首里城跡” を訪れる
 
 首里城
 (しゅりじょう)
 世界文化遺産
 「琉球王国のグスク及び関連遺産
 群」として2000年11月登録
 日本百名城 No.100
 沖縄県 那覇市
 (撮影 2015.12.11)
  首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にある城です。かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあります。

 琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城でありました。戦前は正殿などが国宝でしたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っていました。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元されています。
                (ウィキペディアより) 
(Size :  4,492KB) 首里城、”正殿”を望む 首里城歓会門より、城内を望む




 6.琉球王国のグスク ”園比屋武御嶽石門” を鑑賞する
 
 園比屋武御嶽
 (そのひゃんうたき)
 世界文化遺産
 「琉球王国のグスク及び関連遺産
 群」として2000年11月登録
 沖縄県 那覇市首里真和志町
 (撮影 2015.12.11)
 園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)は16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽で、沖縄県那覇市首里真和志町一丁目に位置し、沖縄県指定史跡となっています。

 首里城歓会門と守礼門との間にある園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)がこの御嶽の礼拝所であります。園比屋武御嶽石門は、1519年に第二尚氏王統第3代王の尚真のときに造られました。オヤケアカハチの乱(1500年)で王府軍が八重山へ出兵した際に、将の一人であった大里親方に見込まれ首里に連れてこられた西塘により創建されたとのことです。
              (ウィキペディアより) 
(Size :    KB) 園比屋武御嶽、”世界遺産登録登録碑”と”石門”を望む 園比屋武御嶽、石門を望む




 7.琉球王国のグスク ”玉陵” を訪れる
 
 玉陵
 (たまうどぅん)
 世界文化遺産
 「琉球王国のグスク及び関連遺産
 群」として2000年11月登録
 沖縄県 那覇市首里金城町
 (撮影 2015.04.11)
 玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓で、所在地は沖縄県那覇市首里金城町です。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1526年)が父、尚円王を葬るために建築したものです。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓です。なお「玉陵」と名付く墓所はほかに「伊是名玉陵」、「山川の玉陵」があります。

 玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれ、中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨しました。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められました。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められています。
             (ウィキペディアより) 
(Size :    KB) 玉陵、前門と全景を望む 玉陵、東室の上に立っていました




 8.琉球王国のグスク 琉球庭園 ”識名園” を散策する
 
 琉球庭園
 識名園(しきなえん)
 世界文化遺産
 「琉球王国のグスク及び関連遺産
 群」として2000年11月登録
 沖縄県 那覇市識名
 (撮影 2015.12.11)
 識名園(しきなえん)は沖縄県那覇市識名にある琉球庭園の一つです。識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも、また首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれました。
 造園は琉球の第二尚氏王朝、尚穆(在位・1752年 - 1795年)の時代に始まったと言われていますが定かではありません。完成は尚温の時代の1799年とのことです。中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築されています。
 完成当時は中国皇帝からの使者(冊封使)をもてなす、現在でいう迎賓館として使われました。「勧耕台」という展望台がありますが、海を望むことはできません。これは琉球をより大きな国に見せるためともいわれています。
              (ウィキペディアより) 
(Size :    KB) 識名園、御殿より庭園を望む 識名園、育徳泉(左側)を望む




 9.琉球王国のグスク ”斎場御嶽(せーふぁうたき)” を訪れる
 
 斎場御嶽
 (せーふぁうたき)
  世界文化遺産
 「琉球王国のグスク及び関連遺産
 群」として2000年11月登録
 沖縄県 南城市
 (撮影 2015.12.11)
 斎場御嶽(せいふぁーうたき/サイハノうたき)は現在の沖縄県南城市にある史跡です。15世紀-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽であるとされています。「せーふぁ」は「最高位」を意味し、「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ほどの意味となり、これは通称とのことです。正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」といいます。

 敷地内には首里城内の施設名と同じ拝所が複数あります。 3つの拝所が集中する最奥部の三庫理(さんぐーい)には「チョウノハナ(京のはな)」という最も格の高い拝所があり、クバの木を伝って琉球の創世神であるアマミクが降臨するとされています。 なお、三庫理からは王国開闢にまつわる最高聖地とされている久高島を遥拝することができるが、これについては史書には記述がありません。これは、近世になって三庫理の岩壁の一角が崩れたことによるもので、かつての三庫理は三方を岩壁に囲まれた空間だったとのことです。
              (ウィキペディアより) 
(Size :    KB) 斎場御嶽、入口を望む 斎場御嶽、寄満(ユインチ)を望む






 世界文化遺産 ”琉球王国のグスク及び関連遺産群”(1)
 
1.琉球王国のグスク 今帰仁城、”城壁”を望む
2.琉球王国のグスク ”座喜味城跡”を望む
3.琉球王国のグスク ”勝連城跡”を望む
4.琉球王国のグスク 中城城跡、”一の郭”にて
5.琉球王国のグスク 首里城跡、”守礼門”を望む
 




 世界文化遺産 ”琉球王国のグスク及び関連遺産群(2)
 
6.琉球王国のグスク ”園比屋武御嶽石門”を望む。この”石門”のみが世界遺産登録となっています
7.琉球王国のグスク ”玉陵”を望む。左より”東室”、”中室”、”西室”となっています
8.琉球王国のグスク 識名園、”識名の御殿(しちなぬうどぅん)”を望む
9.琉球王国のグスク 斎場御嶽、”三庫理(さんぐぅい)”にて
 
  
  
  
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