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     日本の城に登る・城を歩く
(撮影 1990年10月27日)
 



 
 会津城、通称 ”鶴ヶ城”             (福島県:会津若松市)
 

 若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にある城であります。地元では一般的に鶴ヶ城(つるがじょう)といい、地元以外では会津若松城と呼ばれることも多い。文献史上では黒川城(くろかわじょう)、会津城とされることもあります。国の史跡としての指定名称は、若松城跡(わかまつじょうあと)といいます。(ウィキペディアより)

  
 



 
 若松城(鶴ヶ城)の歴史    
 若松城の始まりは、至徳元年(1384年)、葦名7代の葦名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのがはじまりとされています。戦国時代中後期には、英傑・葦名盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いたとのことです。その後、伊達政宗は葦名氏と連年戦いを繰り返し、天正17年(1589年)葦名氏を滅ぼし黒川城を手にしました。しかし政宗は、天正18年(1590年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられてしまいました(ウィキペディアより)
  
  
 
  廊下橋  二の丸と天守を望む        廊下橋



 
 会津のシンボル ”鶴ヶ城”
 


 
 「会津武家屋敷 菊まつり」がおこなわれておりました。そのときの写真です。(1990.10.24)
            
 


 
 天守閣より会津市内を望む
 

 明治6年(1873年)、明治政府による『全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方』により存城処分と決定(すなわち陸軍省の財産に決定)されました。明治7年(1874年)には、「旧若松城は営所建築の場所であるので、石垣や立樹等を除き旧来の建物で必要無いものは取壊し払下げすべく取り計らう事」(陸軍省から仙台鎮台へ達)とされ、同年までに天守をはじめとする建造物は総て解体されました。
 現在の天守は昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたものです。内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されています
(ウィキペディアより)

  
  


 
 ”会津若松城 (鶴ヶ城)” の案内図  
若松城は、平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(12番)に選定されました。(ウィキペディアより
(Yahoo地図より)     (Yahooカーソルセットで航空写真表示)     (Yahooカーソルセットで航空写真表示)  
 
 
 会津藩主松平容保は、最後の将軍 慶喜に忠誠を尽くし、最後の京都守護職を受け 5年間にわたり幕末政争史に関わりました。これにより、会津藩を悲劇に招いていってしまいました。
 1868年鳥羽伏見の戦いに敗れた藩主松平容保に追討命令が出され、官軍は会津を攻めた。会津は東北地方30余藩と同盟を結びこれに対抗、若松城に篭城して守ったが、9月についに降伏しました。藩士の子弟が組織した白虎隊が自刃したのはこの時の話しであります。(ウィキペディアより)
 
 今回は、1990年の秋に訪れた時のネガを元に作成しました。ネガを見ることにより、鶴ヶ城の歴史と我が家の歴史を振り返る良い機会になりました。色々な情報で現在の鶴ヶ城を見ると、やはり東北の城は雪が合います。冬の時期にぜひ訪れてみたいと思いました。



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