Ver 3.0
  Top                                                       Back
       日本の城に登る・城を歩く
   
  

 遠伊達政宗が築いた  ”仙台城”
 
 仙台城(せんだいじょう)は、初代仙台藩主伊達政宗によって造営されました。関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600)12月、城の縄張りが開始され、翌年1月から普請に着手、工事は慶長7年(1602)には一応完成を見たとされています。築城当初は「山城」である本丸を中心とする城郭でしたが、正宗の死後、二代藩主忠宗は山麗部に二の丸の造営を開始ししました。寛永年間以降はこの二の丸が藩政の中心となり、三の丸・勘定所・重臣武家屋敷などが一体となって城域を形成していました。(仙台市教育委員会HPより)
 
 
  
仙台城の呼び名
  仙台城は、現在の宮城県仙台市青葉区(陸奥国宮城郡)の青葉山にある平山城です。雅称は「青葉城」、別名「五城楼」とも呼ばれることもあります。
 仙台城は、慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に渡り、伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁でありました。
ウィキペディアより
  伊達政宗の騎馬像 (小室達作)
日本100名城に選定
 仙台城は、2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(8番)に選定されされましたウィキペディアより


”樅の木は残った”
  
 

 伊達氏 270年の居城 ”仙台城”
 
  仙台城は実践を想定した堅固な山城として計画され、仙台城の本丸は標高115〜140mの高所に築き、東西が断崖絶壁の天然の要害でした。天守閣は築かれなかったものの、本丸には5つ櫓や楼閣城門が築かれ、城下町側には御懸造りと呼ばれる数奇屋風の書院を設けるなどの威容を誇っていました。ウィキペディアより
 
青葉城の由来
 仙台城は、青葉山に位置する事から、青葉城(あおばじょう)という雅称を持ち、一般的に青葉城と呼ばれる事が多い。これは仙台城ができてから生まれた地名で、山と城のどちらが先に「青葉」の名を得たか不明である。青葉山は、仙台七崎の一つ「青葉ヶ崎」に由来します。ウィキペディアより
 
 
 
 

 青葉山に築造された  ”仙台城”
 
 
 
江戸時代以前の青葉城
 青葉山には、伊達氏以前から城があり、初めは千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて島津氏が陸奥守として居城し、室町時代末期には国分荘の国人の国分氏が居城したとも伝えられています。ウィキペディアより
  
  
  
 
奥州の雄 正宗
 戦国の雄伊達政宗は天正12年(1584)から5年間にわたって佐竹氏、白川氏、畠山氏、岩城氏などを攻略し、奥羽66郡の内30余郡を手中におさめたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の「奥州仕置」によって所領の一部を没収され、陸奥岩出山城主として58万石を与えられた。ウィキペディアより
 
    
  
  政宗が築いたのは本丸でした、寛永16年(1639)二代藩主伊達忠宗は二の丸・三の丸を構築し、近世的な大城郭が完成します。
 以後、仙台城は伊達氏13代の居城として明治維新を迎えるが、慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争では、最後の藩主伊達慶邦は奥羽越列藩同盟の盟主として官軍に対抗したものの時勢には勝てず、官軍に降伏する結果となりました。(ウィキペディアより)
 

 
 復元工事が完成した ”本丸 石垣”
 
要害堅個な城
仙台城は城下まではかなりの距離があり」、」本当に懐の深い、広い城であるとおもいました。

□標高120mの青葉山に築かれた仙台城は東側前面に広瀬川が流れ、西側背後は丘陵地で、南側は70〜90mにも及ぶ龍ノ口沢の渓谷が絶壁をなす要害堅固な城でありました。
   本丸石垣1
本丸石垣2
 
 

 仙台市内を望む」正宗像
  
 
 
仙台の始め
 政宗は新城の候補地として4つの土地を選び、家康に認可を求めた。その結果、千代の地が許可され、千代の青葉山に築城を開始しました。千代の地名を中国の故事にちなんで仙台と改めました。
 伊達政宗はその後、2万石を加増され、62万石の太守となりますが、本丸には天守こそ設けなかったが、天下無双の匠と称された紀州の工匠や山城の絵師など優れた技芸家を仙台に招いて桃山風書院建築の粋を集めた御殿を構築。御殿の大広間は千畳敷とも呼ばれましたが、御殿が完成したのは慶長15年(1610)のことでした。
ウィキペディアより
 
 
  
 
  
 

 宮城縣 護國神社
 
 仙台城(青葉城)本丸跡には、城縣護國神社(みやぎけんごこくじんじゃ)があります。明治維新以降の諸事変、戦役における宮城県関係あるいは縁故のある殉難者、5万6千余柱の英霊を祀られています。ウィキペディアより
  
 
城縣護國神社の経緯



 日清戦争後の1898年(明治31年)に組織された昭忠会を母体として、日露戦争中の1904年(明治37年)8月27日、現在地に招魂社を建立し、大日本帝国陸軍・第二師団管下(仙台師管区:宮城県・福島県・新潟県)および山形県の戦死者の一部を祀ったのを起源とします。1939年(昭和14年)の制度改革により内務大臣指定護国神社となり、宮城縣護國神社と称しまた。ウィキペディアより
 
  
 仙台城の本丸跡に護国神社あることには、ビックリさせられました。これも仙台城、伊達氏、明治政府と時代の流れ、歴史の流れを感じさせられます。
 
  
 

 ”仙台城(青葉城)”  案内
  
 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加した為新政府軍に敗北し仙台城は廃城、多くの建物は解体、払い下げとなりましたが、その中で大手門と脇櫓が保存され国宝の指定を受けました。しかし、昭和20年の仙台空襲によって焼失してしまいました。
  
 
カーソルセット → 仙台城鳥瞰図の表示
 
  青葉城恋唄  (東北人・宮城県民の想い)
 
広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず
早瀬躍る光に揺れていた君の瞳
季節(とき)はめぐりまた夏が来て
あの日と同じ流れの岸
瀬音ゆかしき杜の都あの人はもういない

(青葉城恋唄 星間船一作詞 さとう宗幸作曲)

 
  
 
 
後 記
 仙台城を訪れたのは、8月の中旬でした。場内をゆっくりと散策し城の広さを体感する予定でしたが、大雨のため中止にし、日を改めて来城することにしました。そして場内にある食事処で牛タンを食べ帰って来ました。大変美味でした。
 現在は城の再建計画が進められているとのことですので、今後を楽しみにしています。
 
  
  Back
Copyright (c)  e-aruki Inc. All Rights Reserved. 無断転載禁  (by Xinku Yingxing)