Top Ver 6.0
  
 
 
 日本の城に登る・歩く
    ( 日 本 百 名 城 )
  
  
    
[画像]  岩手県盛岡市 ”盛岡城(06)” を訪れる
  
  
  
  
  
  
  
  
 岩手県盛岡市 ”盛岡城 (06)” を歩く
 
 盛岡城 (もりおかじょう)
 日本百名城 No.06 
 岩手県 盛岡市
 (撮影 2014.07.20)
 盛岡城(もりおかじょう)は岩手県盛岡市(陸奥国岩手郡)にあった城です。国の史跡に指定されています。別名は不来方城(こずかたじょう)であると一般に理解されていますが、厳密には盛岡城の前身であり、両者は別の城郭であるとのことです。

 盛岡城の白い花崗岩で組まれた石垣は、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っています。建造物は明治初頭に解体され、現存するものは少なく、城内に移築された土蔵と、市内の報恩禅寺(名須川町1-5)に移築されたとされる門が残るもののみとなっています。     (ウィキペディアより)   
(Size : 2,948KB) 
盛岡城、本丸の石垣を望む 本丸空堀を望む(左側:本丸跡、正面:御廊下橋、右側:二の丸)
 


 ”盛岡城” に登城する
 

 【盛岡城について(1)】

 「盛岡城」は南部(盛岡)藩南部氏の居城でした。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城であります。本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっています。存城当時は廊下橋(屋根のかかった橋)が架けられていました。さらにその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配されていました。本丸には天守台が築かれていましたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされていました。1842年(天保13年)に12代利済により天守へと改称されています。  
(ウィキペディアより)

 
■ 盛岡城,、三の丸入口の”鳩御門跡”を望む、この先に”瓦門”があったとのことです ■
  
盛岡城址公園案内板です、このすぐ先に”櫻山神社”があります 盛岡城、鶴ヶ池を望む
 


 盛岡城 ”三の丸”にて
 
■ 盛岡城、御台所屋敷跡より、三の丸の石垣”を望む ■
  
盛岡城、三の丸”不明御門跡”横の石垣を望む。
巨大な天然石が石垣の一部になっていました。
盛岡城、”三の丸”を望む
 


 盛岡城 ”二の丸”にて
 
■ 盛岡城、二の丸へ進む。三の丸より二の丸入口”車御門跡”を望む ■
  
二の丸入口より、本丸・廊下橋を望む 本丸跡から望む二の丸東側の石垣です
二の丸に有ります、石川啄木歌碑。歌碑の文字は、啄木の恩友金田一京助博士の書とのことです。

「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」
盛岡城、三の丸跡から望む二の丸東側の石垣群です。手前には”不明御門”が有ったとのことです。なかなか雄大です。 
 


 盛岡城 ”本丸跡”にて
 

 【盛岡城について(2)】

 盛岡城の建造物は明治初頭に解体され、現存するものは少なく、城内に移築された土蔵と、市内の報恩禅寺(名須川町1-5)に移築されたとされる門が残るのみとなっています。なお、移築門については城門であった確証は得られていません。また、清水寺に城門(いずれかの門か定かではない)、木津屋本店奥土蔵、岩手川(旧・浜藤酒造)に土蔵が再移築され現存しています。また、徳清倉庫に二の丸にあった勘定奉行所の一部が移築されているとのことです。    
(ウィキペディアより)

 
■ 盛岡城、御台所跡より、”本丸跡”を望む ■
本丸跡より、盛岡市街を望む
  
朱塗りの”御廊下橋”を望む。(本丸より二の丸方面を望む) 本丸跡、南部家四十二代南部利祥の銅像跡。
銅像は戦時中の軍需資材として提供されたとのことです。
  
”本丸”東側入口(未御門跡)の石垣を望む 本丸三層櫓跡を望む。天守の代わりになっていました ”本丸跡”全景です 本丸より、”御廊下橋”を望む


 盛岡城 ”坂下門跡”を望む
 
■ 盛岡城、坂下門跡を望む ■
”吹上門跡”より、腰曲輪(淡路丸)方面を望む。左は、本丸への石段です 腰曲輪西側の”坂下門跡”方向への坂道です
盛岡城、”吹上門跡”を望む (城の西側からの入口となります) 盛岡城内に残る唯一の建造物、”彦御蔵”を望む
(建築年代は不明とのこと、江戸時代後期に建てられた物と考えられています)
”東門跡”を望む 盛岡城、城址碑を望む。三の丸瓦門にて 三の丸から”二の丸”入口の石垣を望む ”坂下跡”付近にて (大手門・鳩御門・瓦御門などとは反対側に位置する門です)
  
 


 岩手県盛岡市 ”盛岡城” 案内
 
【日本百名城 盛岡城】

 【 盛岡城の築城から廃城まで】

 盛岡城は、南部信直が安土桃山時代に天下統一を果たした豊臣秀吉より、5ヶ郡(閉伊郡、岩手郡、鹿角郡、紫波郡、糠部郡)の所領を安堵されました。1592年(文禄元年) 蒲生氏郷や浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け、不来方の地を本拠とすべく整地を開始し、1598年(慶長3年)信直は嫡男の利直に築城を命じ、兵学者の内堀伊豆を普請奉行として築城に着手しました。
 1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで利直は東軍に属したため徳川家康より所領を安堵されました。
 慶長年間(-1615年)には総石垣の城としてほぼ完成、利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めました。なお、利直が三の丸を整地した際に見つかった烏帽子岩(宝大石)は現在も三の丸跡に鎮座し、櫻山神社(旧・淡路丸大明神)の社宝として崇敬されています。
 築城と共に城下町の建設を進め、中津川以北の湿地帯を埋め立てて市街地としました。また、中津川には「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」(盛岡三橋)が架橋されました。

 盛岡城の全城が竣工したのは3代藩主重直の時代、1633年(寛永10年)であります。翌1634年(寛永11年)失火により本丸を焼失し、一時、福岡城(九戸城)を居城としました。翌年の1635年(寛永12年)には修復され、再び盛岡城に戻り、以後、盛岡藩の藩庁として明治維新を迎えています。

 1871年(明治4年) 廃藩置県により廃城。1874年(明治7年) 廃城令では当初存城とされましたが、老朽化が著しく一般に払い下げとなり、ほとんどの建物が解体移築されました。その後、陸軍用地となった土地の建物を除いて旧藩主南部家に払い下げとなり、1906年(明治39年) 岩手県に貸与され「岩手公園」として開園しました。    
(ウィキペディアより)

 
■ 中津川では、アユ釣りをしていました。後方は盛岡城址です ■
  
櫻山神社にあります、”烏帽子岩”を望む。盛岡城築城の際に掘り起こされた巨岩です。 盛岡市内を望む。左側が盛岡城址になります
盛岡城案内図 (現地案内板より)
  
 【盛岡城城内の櫻山神社】
櫻山神社、拝殿を望む 櫻山神社 ”烏帽子岩”を望む 巨岩”烏帽子岩”です 櫻山神社にて
 
  
 
Yahoo!地図より Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示) Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示)
  
 
 
           
後   記   
 現在の盛岡城は、城址としては石垣のみとなっておりました。南部藩時代はどうなっていたのだろうかと思いを走らせましたが、残念ながら南部藩の居城としての面影を感じることはできませんでした。城内に廃城になる前の写真でも掲示していただければもっと散策が楽しくなるのではと思いました。

 城内の散策のあと、駐車場に戻る際中津川を見ると2名ほどアユ釣りをしていました。市内を流れる川でアユ釣りができることにはびっくりさせられました。盛岡城の回りには沢山の自然が残っているのだなとつくづく感じさせられました。  
(2014/8/19)

 

盛岡城 ”下曲輪跡”を望む。後方は櫻山神社です。
 
盛岡城、”本丸跡(左側)”、”二の丸跡(右側)”の石垣を望む
 
 


Topへ

  
  
  
  Home  Back  
  
Copyright (c) e-aruki All Right Reserved by Xinku Yingxing 無断転載禁止